しゃべらず、眠らず、ただ踊る
Jen tančí, nemluví, nespí
パヴェル・レンチーン Pavel Renčín
illustration by Ai Ikeda
やさしい時、彼は彼女をプリンセスと呼んだ。むらさき色のリボンをかけたプレゼントを持ってきた。ひざの上にすわる彼女がうとうとしていると、髪を撫でた。わたしを憎むんじゃないと、オーヴンのような熱く乾いた息でささやいた。次の時は暗い目をしてやってきて、彼女の手と足に傷をつけた。あさい傷口から血がどうしたたりおちるのかを観察していた。麻痺して死を覚悟した仔うさぎのように彼女がぴくりとも動かずにすわっていると、傷口に指をこすりつけて味見をした。彼女を傷つける時でさえ手荒にはせず、巣に獲物をとらえた蜘蛛のように彼女をもてあそぶのだった。彼が去ったあと、換気ダクトから彼が自分を罰する鞭の音――それは数日で癒える彼女のかさぶたとはくらべものにならない、はるかにひどい傷痕が背中にのこるにちがいない――が聞こえてきた。
名前。それは過去に消えた。彼といる時、彼女はプリンセス。ただそれだけ。
以前の暮らしはあまりおぼえていなかった。彼女は日中、それについて考えるのを自分に禁じていた。思い出の数々は秘密の深い深い底にある小部屋に隠し、真夜中、彼が寝ていると確信が持てた時にだけそこをあけた。ぞっとするような痛みと愛がつまった危険な小部屋だった。そんな時、彼女は彼に絶対に見せるわけにはいかない、泣くという危険をおかした。彼に知られてはならない――それは忘れていなかった。
最初の数か月が最悪だった。小さな部屋におかれたベッドに彼女はすわっていた。日々が過ぎていく。日一日。パンと水が何回持ってこられたかを彼女は数えた。彼がくるたび、自分がまだ死んでないのが不思議だった。はじめの日々から数年が過ぎた。
彼女は昔から闇が苦手だったが、今になって初めて闇のなにが最悪なのかに気づいた。闇は狂気をもたらすのだ。
「プリンセス?」 オベロンが呼んだ。闇のなか、妖精たちの王が彼女の顔のそばではばたいていた。羽根が空気をかき回すのが感じられた。陽気で残酷な目が針先のようにちくちくと彼女の顔を刺しながら降りていく。
「今はいや」 彼女は彼を追い払った。「考えごとしてるんだから」
「予はそなたのためだけにここにおるのだ、恋しいひとよ。遊んでおくれ」
「言ったでしょ。そんな気になれないの」 少女は自分の息で吹き飛ばされた妖精が向かいの壁にぶつかる様を想像した。オベロンは地下室の壁ぎりぎりのところで羽ばたいて衝突を避けると、いったん姿を消した。
どこまでだったっけ、彼女は首をかしげた。空腹時に考えごとをするのはむずかしい。それも闇――地下室の闇に閉じ込められている時には。入ることも出ることもできないトンネルのような家。
オベロンがもどってきた。
「そのような態度をとるものではないぞ。そなたの《監禁者》はすぐにでも姿あらわすだろうし、予が護ってやらねば、あやつがそなたを苦しめるのは間違いない」
すくなくともまたあのひとに会える、と彼女は思い、自分の考えにぞっとした。その思いに火をつけて燃やすと、闇が一瞬炎で照らされた。光に浮かびあがった壁には痛みと恐怖が刻まれていた。そのすべてを彼女は完全に記憶していた。
「そなたには予がついているではないか」 オベロンが甘く言った。「それから他にもたくさんのものたちが……あやつなど必要ない」
「わたしには人間が必要なの――じゃないと、なにが現実かを忘れてしまう」と彼女は答えた。「現実とお話を区別しなかったら、おまえがわたしを支配できるようになるでしょ」
オベロンは笑い、彼女の周囲を飛びまわった。「予がそなたになにをすると考えておるのだ。そなたには才能がある。そなたが命令をくだし、妖精たちが仕える」
「ほんとに?」
「われらとて世事に疎いわけではない。魚心あれば水心あり」
「消えちゃえ」 彼女がそうささやいた時はもう時間ぎりぎり、階段で足音が聞こえた。来るのはひとりしかいないとわかっていても、彼女はワクワクしていた。彼は今日も数時間、灯りをつけておいてくれるだろう。彼女に文章を書くよう強いるだろう。だが、ものを書くのは好きだった。読書が好きなのと同じくらいに。毎日六時間、それに没頭している時が彼女にとって最高の自由なのだから、しくじるわけにはいかない。読書と執筆、それは地下室以外にも存在しているものがあるという事実を思い出すためのよすがだった。明かりのもとで過ごすたび、次の夜を生きのびる力が彼女に注入されるのだ。
階段の足音が近づいてきた。すぐに彼が部屋に入ってくるだろう。八年前と同じように。
少女は身構えた――伸びすぎてぎざぎざになった爪が、固く握った手のひらに心の動揺の印を刻みつけた。今日は《やさしい彼》の番。きっとそう。どうかお願い、《やさしい彼》であって!
誘拐されてすぐの頃、逃がしてくれるよう懇願すれば彼もおだやかになるだろうと彼女は考えていた。そんな彼女を鼻で笑いこそしなかったが、彼の決意は固くて鋭いメスのようだった。彼女は彼が乱暴するのではないかとつねに怖れていた。
彼女が協力的な時、彼は一度も手をあげなかった。彼の機嫌をとるため、協力的にふるまおうと彼女はすぐさま決心した。固い意志と憎しみを心に持とうと誓ったものの、彼が去る時になるといつも自分が抑えられなくなり、とりすがって懇願をくり返した。最悪なのは暗闇。地下室の扉が閉じられ、鍵がかけられるや、彼女はひとりぼっちだった――空想と夢だけが相手。そして数々の悪夢。
これほどせまい場所に、たくさんの恐ろしいものたちがこうも現実の存在となって現れる事実に彼女は愕然とした。眠ることさえできなかった。おぞましい触手が周囲を漂うなか、彼女はがたがた震えていた。黒い海で泳ぐ彼女の足を竜もどきたちの厚い皮の鼻がつつく。深い海底ではうつろな目がきらめいている。水が泡をたてて渦巻く。だが、負けてなるものかという思いが、彼女になによりも必要な力をあたえた。彼女はその気持ちにしたがおうと思った。黒い水に横たわると、からだを完全にあずける。思い出――料理を焦がして、かんだかい声で泣き言を言っていた母親の姿――を唯一の武器に。思い出――誕生会でお面を用意してくれた姉たち。思い出……だが果てしない闇の前では思い出の数々も次第に減ってきているようだ。
足音がやんだ。ドアを外からふさいでいる重たい金庫がずずっずずっずずっと動かされた。鍵ががちゃ。懐中電灯の血に飢えた眼が闇を裂き、濁った白目をした青白い深海魚の彼女が生きているのを確認した。
「目をぱちぱちするんじゃない」 《監禁者》が命じた。
彼女はできるかぎりそう努めた。
「紙と明かりを持ってきた」
彼女はおずおずと言った。「お腹がすきました。喉も乾いてます」
「わたしがおまえのことを忘れたりしないのは知ってるだろう、プリンセス」
彼女は彼が籠も持ってきているのに気づいた。すばやく目を走らせ中身を見る。集中力の助けとなる果物とビタミン剤があるとわかり、満足した。カラス麦のフレーク。牛乳。干し肉とバゲット。
「ありがとう」 思わず口に出た。
「他に欲しいものは?」
「なにか読むものがすごく欲しいです。ここにあるのはもう全部読み終わったんで。こっちに積まれているのも」
「まさか。そこまで速読の者がいるわけない。まあ、そうはいってもわがプリンセスは絶対に嘘をつかないし。おまえが天才なのはわかってる。疑ったのを許しておくれ。ニーチェは気に入ったかい」
「ご期待にそえなくて申し訳ないですけど、文学のほうが好きです。作家が読者をからかってるみたいで」
彼は肩をすくめた。「新作長編の調子はどうだ」
「一所懸命やってます。話の展開で苦労してますけど。時どき、むこうがわたしより力がある気がして――なにかと邪魔をするんで、点をひとつ打つのも思いどおりにいかないんです。この物語はこれまでにはなかったものです。そのぐらい常識破りなんです。でも……書きあげられるかどうか」
彼がぴしゃりと打ち消した。「そんなこと考えるんじゃない」
「キャラクターたちがとても活き活きとしてて。あなたがここにいない時、闇のなかにあらわれるんです。あなたのことが心配になります」
彼は笑い、彼女の髪を撫でさすった。「わがプリンセスは決して嘘をつかない」 彼はさらに耳、肩を撫でた。思春期になって美しく丸みをおびた乳房を手が過ぎていく。彼女は乳首が固くなるのを感じた。まるで脊髄をさそりが這っているかのよう。彼のお楽しみが終わりに近づいているがわかると、彼女のからだはこわばった――今日来たのは《やさしい彼》のほうなんだから。
「新しい物語には興味深々だよ。読むのを楽しみにしている」
《やさしい彼》が自分を苦しめないとわかったので、彼女は笑みをうかべた。
《やさしい彼》のことは好きだった。彼が言っているのは本当で、彼女は一度も嘘をついたことがなかった。誘拐されてからすぐのこと、彼は嘘発見器を持ち歩いていると彼女にうちあけた。それは緑と赤のLEDランプがついた小さな箱で、彼のポケットのなか、彼女がなにかするたびに点滅した。囚われの身になったばかりの頃、彼女が彼を騙そうとした時に赤いランプが光った。そうなると《邪悪な男》の出番。彼は明かりを消し、あたりを恐怖で満たした。彼女をしばっただけでさわらず、いっしょに暗闇のなかにとどまった。彼女の周囲を歩きまわり、懐中電灯で顔を照らした。彼女は剃刀を見た気がして、恐怖に声をあげた。耳もとでじょりっという音が聞こえた。切られた髪の先端が肩に落ち、それから生温かい尿が片方の足をつたっておちていくのがわかった。しまいに《監禁者》は懐中電灯を消し、彼女と部屋にじっとしていた。何時間も。闇のなか。細い布ひもが彼女の手にくい込み、汗と尿の匂いであたりがじとっとしてきた。自分が汚濁にまみれているのがわかった。からだががたがた震えた。彼の息づかいが聞こえる。オーブンの熱風のような、彼女の魂をしゃぶっている悪魔を思わせるような息がすぐそばで。それから突然彼は気配を消し、最悪の時がくる――彼がまだ部屋にいるのか、出ていったのかわからない。自分がまだ生きているのかさえも。それ以来、彼女は二度と嘘をついたことがない。
「あなたが来てくれてうれしいです」 正直に彼女は言った。「ずっとあなたを憎んでましたけど、理解できはじめていると思うんです。あなたにはだれもいてくれなかったんでしょ。自分なりのやりかたであなたはわたしを好きなんです」 彼がすばやく身をひいたので、彼女はまたわけがわからなくなった。
「そんなふうに決めつけないほうがいい。わたしはなにより、この物語の完成した様が見たいんだ。作業にかかれ。爆弾のチェックにいってくるから。わたしが毎日コードを入力しなければ、どうなるかわかってるだろう」
「わかってます」 彼女は答えた。家が燃えあがり、地下にいる自分がランプのなかの蛾のように燃えつきてしまう場面が頭にうかんだので、あやうくそれが現実になるところだった。少女はなんとかそれをこらえた。彼は彼女の目に炎が燃えているのが見えた気がしたので、背をむけると、うろたえながらドアを乱暴にしめた。鍵ががちゃ、ドア錠がしゅっ、重たい金庫がずずっずずっずずっ、それから階段で足音がどすっどすっどすっどすっ。彼女はがまんできなくなって大声で笑った――やがて自分の笑い声に妖精たちのかん高い笑いが混じりあっていくのが聞こえた。
日がすぎ、彼女は自分の作品がつかめてきた。原稿の山が高くなっていく。《監禁者》は前よりも頻繁に顔を出すようになり、飢えた目で彼女を見た。一日一日、彼女は彼に反抗する力を得てはまた失いを繰り返したが、無益なことだった。彼が欲しいのは彼女ではなく、彼女の作品なのだから。だからこそ彼は彼女の面倒をみて、サーカスの動物のように調教したのだ。誘拐したのは十歳の少女。それからさまざまな文化的教養のレッスンをして、彼女に最高の教育をほどこした。彼自身かつては作家で、おのれの経験を彼女に伝授すると固く決心していたのだ。一年半ののちにはもう教えることがなくなった。二年後、彼女はあらゆる面で完全に彼を凌駕していた。
監禁されてから八年、彼女は現実の世界がどんなふうかを忘れてしまい、頭で想像したイメージのなかにだけ没入していた。花の匂い、人々のしゃべり方、オーケストラの音はどう響くかといったことから、雲は空でどんな形をとるかという想像不可能なことまで。ルールも枠組みもない世界について書くのは彼女を疲弊させたが、一方で、それが存在していると信じつづけることが生きぬくための意志の力になっていた。
《監禁者》をまた呼び寄せようと強く念じる術を彼女は身につけた。彼に会えるように。彼女は彼と会話をかわした。すくなくともしばらくの間、彼を憎めるように。彼をベッドに誘い、自分に乱暴するか、キスをするか、縛るか、怠惰なところや淫売ぶりをののしって欲しかった。だが彼はいつきても小説についてたずねるだけ。慇懃に、感情をあらわすことなく。自分がもう長くは耐えられないと彼女はわかっていた。だがその一方、《邪悪な男》を目覚めさせるのが怖くて、黙って静かに自分の最高傑作に取り組み続けた。彼女は彼のプリンセスだった。闇の支配者を楽しませるために物語を書く人形だった。
以前、彼女が何度か試してみたことがある。文章に暗号をまぎれこませたのだ。監禁者が彼女の文章をだれかに読ませて、読んだひとが段落の最初の一文字をつなぎ合わせるとメッセージになっているのに気づくよう願って。辛抱強く、同時に、小説に暗号をひそませているのが露見するのを怖れながら――だが迷宮脱出のアリアドネの糸が細すぎたのか、それともだれも一度もそれをたどってみようとしなかったのか。
「もうすぐだ、妹よ、終末はすぐそこにせまっている」 オベロンが彼女の髪のまわりを飛んだ。
彼に目もくれず彼女は作業に没頭していた。紙に覆いかぶさるようにして――いまのところボールペンはかろやかに動いている――紙から森の湿った香りがたちのぼり、部屋の隅のどこかから狼の遠吠えが響いた。「ぶるぶるぶる! これはまた気味の悪い」 オベロンはささやき、彼女の耳のまわりを飛びまわった――狼の仔が二匹、ボールペンの先をとり合いっこするので、紙の上には散らばったスパゲッティのような意味のない線だけが残った。
「気味悪いってなによ。これはおとぎ話よ。気味悪いものなんてなにもないじゃない。わかる? 最後のドラゴンとの闘いで命をおとす名高き竜退治の英雄について書いてるの。彼の息子の木工はしきたりにしたがって、父親のかたき討ちに出発する。彼は戦士じゃないんだけど、自分のなかに勇気を見出して……」
「ドラゴンを殺す」
「……ドラゴンをみつけて殺そうと、竜の洞穴に入っていく。彼はドラゴンを一度も見たことがないから、洞窟でドラゴンのかわりに人間の男に出会ってびっくりするの。黒髪の謎めいた男が彼に言う――わたしがドラゴンだって」
ぱりんと電球が破裂し、赤く輝くフィラメントが不気味な無明の闇のなかにぽつんとのこった――机のうえにおかれた紙から、息がつまりそうなほどどっしりとした煙があらわれて床に落ち、水のように部屋の隅々にまでひろがっていった。少女は自分の足もとでパンくずをはこぶ蟻の列が突然死んだように止まるのを見て、これは現実であるはずがないと思った。部屋の隅にいた蜘蛛が突然動きを止め、背中から煙のなかに落ちた。それはあらゆる生命の終焉だった。
わたしがドラゴンだ――そのささやきは壁にそって伝わり、壁面に反響していくつもの音のように密接にからまりあった。
「ブラヴォー」 妖精はあえいだ。「ブラヴォー、夜のプリンセスよ」
「最後には正義が勝って…」 彼女はうつむいたままつぶやくと、仔狼たちからボールペンをとり返した。仕事にもどる時間だ。自由へと。
彼女の文章はよく書けていた。それどころか、《監禁者》がしばしば持ってくるいくつかの本とくらべても遜色ないほどだった。
「これは……ううん…」 彼女の手書き原稿の文章をひろい読みしながら、《監禁者》は口ごもった。「これはとてもよく書けてる」 それから、それを持って上にいったが、三十分後にまたもどってきた。彼女にのしかからんばかりにして立ち、うるんだ目で見つめた。手は汗ばみ、一番安いラム酒をがぶ飲みしたあとのようにふくれた舌でしゃべり続けた。彼はアルコールをまったく飲まないので、彼の渇望をかきたてたのは自分の小説だと彼女は見ぬいた。うまくいってる、と彼女はほくそ笑んだ。
「これはまだ完成品じゃありませんから。書きおわらないんじゃないかっていう気が時どきして」と彼女は言った。
彼がぴしゃりと打ち消す。「もし書きあげられなかったら、おまえを殺す。そのあとすぐにわたしも自殺する。薬をのんで、ベッドでおまえのとなりに横たわるんだ。爆弾が爆発して、わたしたちを永遠にここに埋めてしまうようにな。おまえは死んだあともわたしといっしょだ。地下室でも、墓場でも。おまえはわたしから絶対に逃れられない」
彼が正しかった。「あなたが憎い」 おちつきはらった声で彼女は言った。
彼は笑い、自信をとりもどしていた。「おまえにわたしを愛してほしいわけじゃない。おまえはわがプリンセスで、おまえを喜ばすためならわたしはなんでもする。それがおまえに気に入られようが気に入られまいが関係なくな」
これは彼女の待ち望んでいた展開だった。彼には必要以上に心のバランスを失ってほしくない。物語はまだ完成していなかったし、彼女自身まだ準備ができてない。まずなによりも爆発解除のコードを手に入れなければ。罠をしかけるのはまだ先のことだ。
「服をぬげ!」 彼女は不意をつかれた――これまで《やさしい彼》と《邪悪な男》が同時に存在したためしはなかったのに。彼をなだめてる時間はなかった。
彼女はすり切れたフランネルのシャツのボタンをはずすと、いぶかしげに彼を見た。
「早くしないか」 彼はさきほどのドラゴンのように唸り、その言葉も同じように脅しとなって壁から壁に反響した。
彼女は大慌てでシャツをぬいだ。顎ががくがく震えるのを止められなかった。彼は気づいてる! すすり泣きがもれるのをこらえようとした。染みだらけのTシャツをすばやく頭からぬき、ズボンもぬいだ。ぶかぶかのズボンはずり落ちてくるぶしにひっかかり、汚れた降伏の白旗のようだった。彼はそれらをひろおうとしてひざまずいた。今だ!と彼女は思った。彼の頭を蹴りとばせば、もしかしたら彼の横をすり抜けて家に帰れるかも。もしかしたら窓に爆薬は設置されていないかも。もしかしたら……だが彼女は恐怖で凍りつき、前へ踏みだすことができなかった。そうしてるうちに彼は服をひろい集めた。
「靴下」
彼女はそれを彼に渡したが、今日はシャワーの日ではないのでとまどっていた。
「十ページにつき一つずつ返してやるからな」と彼はささやき、出ていった。
心臓の動悸がおさまると疲れがドッと出て、彼女はベッドにすわり込んだ。指で足から足をさする。寒気がして、皮膚は鳥肌で青ざめていた。書かなければ。書くこと、それは彼の望み。書くこと、それは彼のうちにひそむ野獣にとっての生きる糧。その野獣は酸液で彼女の文章を細かく砕いてから内臓で分解代謝し、文章に含まれる有毒物質を薄める。そしてそれを杯になみなみと注いで彼にあたえるのだ。
すすり泣きがオベロンの残忍な笑いと、地下室の暗い隅に潜むその他のおぞましい生きものたちの笑い声をかき消していった。
真夜中に彼女は目をさました。電球がついたままでも実際には昼間だったのだが、すくなくとも彼女にとっては夜だった。次の原稿で彼女はズボンをとりかえした。それは寒さをふせぐ助けにはまったくならなかった。鼻水がたれ、額が熱っぽかった。彼女は鉛筆をとりあげたが、手が震えて指からすべり落ちた。少女はからだを縮こまらせ、また眠ろうとした。
「逃げ出せ」 心臓まで貫く長い針のように細い声が彼女の耳に響いた。逃げ出せ、と心の中で声がくり返された。いつかそのうちにね。
でもわたしはまだ子どもで力もない。何日かあと、何か月かあとでならね――でも今日はまだ準備ができてない。
「物語に死をひそませるのだ」 オベロンがささやくと、両脇からドラゴンの影が唱和した。「毒きのこのスープを味わうように、あやつはこれをじっくり読むだろう。砂糖菓子に見せかけたスズメバチをのみ込むようにな。そなたはあやつの心の端を切りひらくだけで十分、あとはわれらがかたづける」
「かたづけるって?」 夢うつつの中で彼女はささやいた。
「あやつが読みすすめばすすむほど、われらの力は強大になる。あれはもうそなたの奴隷よ」 オベロンは満足げにもみ手をした。
「奴隷なのはわたしの方よ」 信じられないという様子で彼女は首をふった。
「そなたがその状態を望むのならな……家族が恋しくないというのならな。われらは去り、そして二度ともどって来はせぬ」
「だめよ。あなたたちだけがわたしの友だちなんだから」
「わしらはおまえさまの友だちなんかじゃねえ」 乗り物にのったトップハットの親方がマッチ箱のトンネルから出てきて言った。彼が鞭をならすと、六匹立てのゴキブリ車がとまった。「わしらはおまえさまが創ったもの。わしらはおまえさま。わしらは……」
「…あなたたちはわたしの憎しみ。あなたたちはわたしの愛。あなたたちはわたしの子ども」
「わしらはおまえさまの子ども」 彼らは真剣にうなずき、その目は黒ダイヤのようにきらめいた。
「やつが眠ったら押しかけるんだ」 ドラゴンが吼えた。
さらに続々と現れる。彼女の物語の主役たちが。ねじれた心をもつ誇り高き存在たち。毛むくじゃらの妖精数人が天井からロープをつたい降りてきた。羽根布団の上を錆びた鎧に身をつつんだ二人組の騎士が駆けていき、少女の頭上をペガサスが輪をえがきながら飛んだ。地下室の壁では色とりどりの幻影がうねうね蠢いた。彼女は熱にうかされながら、それらが混じり、重なりあう様をながめていた。こんなことあるはずない?! それらの物のほとんどには見覚えがあったが、思い出せないのもあった。いくつかについては、こんなおぞましいものを自分が創りだせるはずがないと確信していた。彼らは群れとなり、彼女に近づいてきた。異形の存在たち。命を得たマリオネット。ぜんまいじかけの人形。奇妙な踊りのなか、光と闇が電球にひきよせられた蛾の群れのように円をえがいていた。滑らかな毛におおわれた胸に髑髏の模様があるスズメガ。
「オベロン!」 彼女が叫んだ。
「夏至の夜なり。今日より永遠に!」
どこからともなく、骨のかたかた、金属のぎしぎし、そして鋏のちょきちょきといった音からなる音楽が堰を切ったように響いてきた。トライアングルの寂しげなちーん。うずくまる彼女の足もとで、踊りがおだやかなものへと変わっていった。
わたし、熱がある。彼女は奇妙な踊りの輪を見つめていた。ぐじゃぐじゃの混沌と、悪夢のような美しさ。また鳥肌がたっているのに彼女は気づいた。テンポがあがり、ちぐはぐな踊りはさらに続いた。
彼らはおたがいしゃべらなかった。疲れることなく。眠ることなく。彼らは踊った――まるで呪術師に古代からつたわる呪文を彼女に唱えているかのように。踊り、そして魔法を織りあげていく。しまいに彼女は眠りにおちた。
「物語を語る最高のテクニックがうまくつかえました」 《監禁者》が来ると彼女は正直につげた。彼は疑わしそうに彼女を上から下までじろじろ見たが、嘘発見器は緑のゾーンのままだった。
「ここにあるのが物語の残りです」
彼は彼女の手からそれをひったくった。「ようやくできたか。可愛いプリンセス、わたしを苦しめてくれたな。これほど待たすとは」
「必死でやりました。新しいやり方を身につけたんです」
「おまえはわが愛しの君だよ」 彼は彼女を抱きしめようと近寄ったが、すぐに見えない壁に隔てられたように足を止めた。うろたえ、そわそわしはじめた。「もういかなければ」
彼が出口のほうを向くと、彼女はこらえきれなくなって口をすべらせた。 「読んじゃだめ!」
「おまえが言ったんじゃないか、これは自分の最高傑作だって」
おのれの愚かさに負けて叫ばないよう、彼女はこぶしを噛んだ。嘘をつきたいのに、怖かった。彼を殺したいのに、崇拝していた。彼は根はいい人間だとわかっていた。彼女を誘拐したのは孤独だったからだ。なぜ他のだれかを選ばなかったの――彼女は心のなかで叫んだ。
彼はなんとなく危険を察知したのか、ドアのところでもたもたしていた。
黙っていたら矛盾でいっぱいの一秒一秒がぐさぐさと苛むので、彼女はしゃべり続けた。「これはわたしの最高の小説です。でもあなたのことが心配なんです。もしあなたになにかおきたら。わたしはどうなるんです」
「もしわたしになにかおきたらだと、プリンセス? おまえはわたしのために生きてるということがまだわかってないようだな。この八年間、おまえに食べものと服をあたえ、抱きしめたのはわたしだ。おまえのことなどとっくに忘れているおまえの家族じゃない――わたしだけだ。おまえの世話をしているのはわたしだけだ。他のだれひとり、おまえに対する権利はないんだよ」
「それでも、わたしはあなたが憎い」
「それはかまわない。書き続ける限りおまえはわたしを憎んでもいい。そしてわたしはおまえを愛するのをやめはしない」
「いかないで。もうすこしここにいて」
「それは駄目だ」 彼はうめいた。「今日はもう十分だ」
「お願い」
彼女はドアに近づきながら彼の手をつかんだ。それは自分の手と同じくらい熱く、同じくらい汗ばんでいた。彼は手を振りはらった。しなる腕が彼女の顔に命中したので、バランスをくずして壁にぶつかった。しばらく気を失っていたのか、意識がもどった時、彼はいなかった。顔に赤いあざができ、腫れていた。天井の電球がちかちかしている。もう終わってしまった。(*訳註)
翌日、彼は姿を見せず、少女は空腹のままだった。もっとひどいのは喉の渇きだった。数時間――時間の見当をつけるのはむずかしかったが――が過ぎた。彼女は途方に暮れはじめた。
それからまた何時間が過ぎると、彼女は金属製のドアを両こぶしでヒステリックに、関節の皮膚が裂けるまで叩きはじめた。すり傷の血が髑髏を思わせる奇妙な跡をドアにつけた。この愚かな行為で、彼女はさらに体力を失った。
今が何時なのかも彼女にはわからなかった。両手に顔をうずめ、ベッドにすわっていた。涙も枯れ果て、飲めるものはもうおしっこしか残っていなかった。電球が割れ、光が消えた。
少女はそれさえにも気づかなかった。目は虚ろだった。思考が中空をただよっていった。どうやって彼の血を飲むか想像した。憎しみが彼女を生につなぎとめていた。憎しみ。
階段で足音。金庫がずずっずずっずずっ、鍵ががちゃ。彼がそこにいた。《やさしい彼》でも《邪悪な男》でもない……三番目のなにか。彼は両方の耳を手で押さえ、あふれる血を止めようとしていた。指の間からトマトソースのように濃厚なものが流れ出た。しゃべろうとしたが、口をひらくと歯の間から血がほとばしった。指は猛禽類の鉤爪のように固く握られていた。目から血がしたたり落ちた……
気力を失い、ぼうっとなっていた少女は立ちあがろうとしたが、力が入らずくずれ落ちた。彼女はあとずさった。壁のほうへ這った。離れなければ。このおぞましい人間のカリカチュアからとにかく離れなければ! 彼は彼女のほうによろよろと歩いてきた。ごぼごぼと咳きこんでいる。近づいてくる。もっと近く。
彼女は最後の力をふりしぼって跳んだ。彼の横を駆けぬける。彼をつきとばす。跳び越える。一段、二段。軽いステップ……転倒。膝から下が麻痺するほどの痛みが走った。ぬるぬるした彼の手が彼女の足首をまさぐるのが感じられた。盲滅法に蹴ると、階段を這いあがる。ひとけのない家のなかを駆けぬけた。燭台をつかみ、窓を壊す。破片の間をぬって外にでた。傷だらけで、獣のように疲れ果てていた。一ブロック走って逃げると、彼女は道に倒れこんだ。そして完全に気を失った。
再び目をあけた時、彼女は《他の場所》にいた。そこもせまい空間だったので、最初は地下室のように見えたが、走っている車のなかにいるのだとわかった。サーカスのごちゃごちゃした車のなかにいる! 窓の外でイルミネーションが輝き、あらゆるものが回転ブランコのように混じりあった。彼女はふたたび、母や姉たちといっしょに移動遊園地にいた。綿菓子をなめていると射的場からぶんちゃかと音楽が聞こえ、あらゆる動き、色が彼女の目の前をとおり過ぎていった。気分がよかった。金色の夢のなかを漂い、水槽の内側から世界を見ている。射的の銃をおいた男が彼女にうなずいてみせた。彼女はおちついていた。男は《監禁者》とはまったく違って見えた。彼は彼女に笑いかけ、きっとうまくいく、とくり返し言った。
彼女は微笑みをうかべた。
病院で目覚めると、彼女は点滴につながれていた。そこは居心地が悪くなるほど広かった――部屋にはベッドがあと三つあり、窓にはブラインドがついていた。あたりを見まわすとめまいがした。息を吸うと酸素過剰で頭がくらくらした。終わった、彼女は思った。すべて終わったんだ! その一方で、《監禁者》のもとから逃れられたのが信じられなかった。今にも彼がドアから入ってくるような気がした。次なる彼の懲罰に耐えて生きのびるのは無理だとわかっていた。
だがそれははじまりにすぎなかった。彼女は医師たちに自分の名前を告げ、誘拐について話した。彼らは信じなかった。彼女のDNAを調べたあとで彼らの口が開いたままふさがらなくなった時でも、彼女は満足感を感じることはなかった。医師たちは眼鏡を拭きなおし、モニターを見つめた。彼女が八年以上も行方不明だったと彼らが理解してから、ようやく物事が正しく回りはじめた。
明るいブルーのシャツを着た警察官たちが、内務省の人間と交代した。メディアが病院をとり囲んだ。皆、なにかほんのすこしでも彼女から得ようとしていた。写真を撮るとか。映像を撮影するとか。インタビューをするとか。
医師たちも数日間は記者を遠ざけることができた。
彼女は自分がもう一度生まれたように感じていた――あらゆる喜びや困難とともに。光にからだを慣らし、衰えた筋肉をきたえ、広い空間と…そして人間へのパニック恐怖症を克服しようと努力した。
警察の人間は丁重ではあったが容赦なかった。さまざまな事柄――たとえば《監禁者》がどんなふうに死んだか――について質問した。彼らは噓発見器を持っていなかったので(彼女は注意深く観察していた)、彼女は肩をすくめただけだった。またどこかの小部屋に閉じこめられるぐらいなら、死んだほうがましよ。
やがて警察も記者たちをおさえておけなくなった。彼らは病院になだれ込んできた。テレビの撮影クルー、新聞記者、特派員、外国メディア、ラジオ局の人間……。厳しい資格審査があったにもかかわらず、彼女の面会時間は完全にうまっていた。
とはいえ最初に彼女を訪れたのは家族だった。母、父と姉たち――彼女は再び元気になってきた。
恐怖心を抑えて、取材記者も三人ずつ(それ以上の人間はまだ怖かった)なら受けいれられるようになるぐらいには調子がよくなった。 メディアはかつて《監禁者》がそうだったように彼女に襲いかかり、その私生活の細部、公表できる最後の一滴まで奪い、搾り、吸いとった。新聞記者たちは彼女が言わなかったことでも軽佻浮薄に勘ぐった。
彼らの質問はきりがなかった。曰く、どうやって地下室で生きのびることができたのか。彼は虐待したか。彼を憎んでいたか。部屋は本だらけだったが、読書は好きか。彼の本は読んだか。彼と寝たか。これは自発的な行為だったのか。彼がどんな死に方をしたか知っているか。彼を殺したか。
「なんですって」 彼女は息をのんだ。「なんて言いました」
同席していた医師が、抗議する記者を部屋から追いだした。
何度も同じ質問をくり返されたので、彼女はほとんど機械的に答えた。彼らはわたしから搾りとっている、再充填が困難なエネルギーを奪いとっていると感じていた。
「もう勘弁してください」 彼女は懇願した――日がたつにつれ国民的ヒロインになっていく彼女は日に数時間しか一人にしてもらえなかった。夜、オベロンを呼んだが返事はなく、彼女自身あれは脳が危機的状況に心の平静をたもつための対処法に過ぎなかったのだと気がついた。精神科医は彼女をほめた。
次の日、彼女が新聞にざっと目をとおすと、見出しは彼女が発見されたことを世界にむけて熱狂的にわめきたてていた。彼女は容姿端麗だが、陽の光にまったくあたってなかったみたいにとても蒼白い。話しかたはきわめて知的で、自分が言いたいことを完璧に言える。同年代の者と同じか、むしろ遥かに大人びている等々。
新聞は彼についてもふれていた。彼の顔を見た瞬間、彼女の口から恐怖の叫び声が出そうになった。新聞を放り出し、二度と見ようとしなかった。
午後になり、心からの理解と称賛に満ちたお祝いの手紙がたくさん、箱いっぱいに届けられたが、彼女の不安を消し去ることはできなかった。空一面雲におおわれ、その背後に太陽がかくれるといつも不吉な予感がして、顎ががくがく震えた。なにかを見逃している。パズルの欠けたピース。彼女は病院から家の、すべて手をつけられず昔のままの子ども部屋にもどった。真夜中、彼女はベッドに腰をおろしていた。肌着は冷たい汗でぐっしょりだった。あれは金庫の音! 今、鍵ががちゃっと、そして… 息も絶え絶え、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。彼女は決心した――もう一度あの家に行かなければ。
*
それは彼女の逃走から二週間ののち、毎日診察にくる精神科医の反対を押し切って敢行された。
「あの邪悪さが一掃されたとこの目で確かめないと、いても立ってもいられないんです。もう絶対にもどってこないって。わかってもらえますか」
それから姉たちにつきそわれて彼女はそこへ向かった。外から見る家は威圧的で、けばけばしかった。庭には彫像がいくつもあり、灌木はピラミッド型に剪定されていた。彼がこんなに金持ちだったとは彼女は予想もしていなかった。家に入るとまっすぐ地下室へむかった。姉たちが彼女の先を進んだ。階段をくだり、彼女の部屋を見た姉たちは泣きだしてしまい、妹の手を何度もさすった。彼女は落ち着いていた。そこには過去八年間に見慣れたものしかない。だが彼女の胸の内のもやもやは消えなかった。上にあがり、家のなかをゆっくりと歩きまわった。再度彼の写真を目にしたが、もう怯えたりはしなかった。マホガニーの本棚には本がずらりと並べられている。ベストセラーの数々。彼女は息をのんだ。それらに指をすべらせる――まるで自分に子供が生まれていたことを知り、見知らぬひとに育てられて大人になったその子とはじめて対面したかのように…… そこにあるのはすべて彼のために彼女が何千時間もかけて書いた本、物語だった――このおかげで彼は金持ちになったのだ。
彼女らは家にもどった。姉たちは体を震わせて幼女のようにすすり泣いたが、彼女は怒りにうち震えていた。夜、姉妹はテレビを観て、あったかいバニラ・プリンを作った。母親はおろおろしていた。彼女にはこれが現実のこととは思えなかった。体を動かすと夢が雲散霧消してしまうような気がして、じっとすわっていた。この瞬間が永遠に続くようにと願った。夜寝る前にはみんなのひたいにキスをした。
闇。金庫を移動させるずずっずずっという音、そして鍵ががちゃ。陰鬱なきききーという軋みとともに地獄の扉がひらいた。ドアのむこうの闇に赤い光が燃え輝き、オーブンのような熱風を放っていた。影が浮かびあがる。そして近づくごとにそれは明瞭になっていった。
「《監禁者》、あなたなの?」 少女は叫んだ。
「今日はわれらにとって偉大な日よ」 妖精オベロンが歓声をあげ、彼の赤い目が市場のイルミネーションのようにぴかぴか光った。「夏至の夜よ!」
少女は最後の行進を思い出して背筋に寒気が走った。「なぜもどってきたの?」
「予は夢。夢はもどってきたがるが道理。予はあやつからそなたを護るためにここにおるのだ。あやつは常にそなたのそばにおる。そなたはわれらを追いはらったが、あやつをおはらい箱にはできなかった」
「わたしはおまえを追いはらったりしてない。ただ…、おまえたちが勝手に消えたんじゃない」
「今日の日、われらの時ぞきたれり。骸骨たちの真夜中の舞踏会。杯を手にとり、空間はおろか時さえも越えた幻想譚の傑作に乾杯じゃ。思念のもっとも深き場所への扉をあける呪文に」
「いったいなにがおまえにあったのよ」
「われらはそなたの子ら。われらはそなたを救いだしてやったし、そなたは借りを支払った。これで貸し借りはなしよ」 妖精は哄笑し、小さなドラゴンの歯を剝きだしにした。
「わたしが借りを支払ったですって」
オベロンは長い舌で指をなめまわし、彼女をねめつけた。
彼女はベッドに座りこみ、ぜえぜえあえいだ。目は完全に覚めている。これは夢なの? 彼女は地下室で眠れぬ夜にやっていたように、闇を見つめて観想した。次なる夢が解き放たれた。あの家がまた見える。《監禁者》はテーブルにつき、モニターの光が彼の顔を照らしている。長い文章を打ち終わったところだ。ファイルをセーブし、メールを送信する。送信済みフォルダに入っているか注意深く確認しているところをみると、だれか重要な人に送ったのだろう。もっと近づきたい、そしてなにを、だれに送ったのかを見たい――強い思いに彼女は駆られていた。だが家に入ることまではできなかった。明かりが消され、小さなランプがつけられる。《監禁者》は顔を押しつけるようにして、先ほど打った文章をまた注意深く読みはじめる。突然、彼女にはわかった――メールは出版社に、もう何週間にもわたり約束の文章を送るよう催促してきた出版社に送られたのだ。とうの昔にデスクの上になければならなかったベストセラー作家の文章。
少女は震えだした。闇を凝視した。数分が過ぎた。彼女は内なる目で目撃しているのだ――本がおのれの犠牲者を見つけるその様を。ああ、どうか夢であって、彼女は心のなかで祈った。
午前零時十五分前、幾万もの家庭でカリカリとかすかな音がした。猫が爪を研ぐ時に聞こえるような。小さな妖精、ドラゴン、ごつごつの関節をもつ奇妙にねじくれたいきもの、森の悪鬼(ヘイカル)、骸骨、魔女、そして地獄の犬たちが眠たげに、充血した目をこすっていた。
どうか、夢であって!
オベロンは脛の骨でできた笛をぴろぴろと小刻みにトリルで吹き鳴らした。憎しみの子らが目を覚ました。そして邪悪の時が告げられると、本が音もなく開いた。
*訳注.十字架上のキリストの最後の七つの言葉のうちの第六の言葉、「終わった(完了した)」にかけられている。
〔Neklan 一言〕
2007年に雑誌 “Pevnost” に掲載された「しゃべらず、眠らず、ただ踊る」はその後、パヴェル・レンチーンの第一短編集 “Beton, kosti a sny (コンクリート、骨、そして夢)” に収録されました。短編集の冒頭にこの作品が置かれているのは、レンチーンにとっても思い入れがある、もしくは自信作だということでしょう。因みにNeklanが初めて読んだレンチーン作品がこれで、読んだ後の驚きは今もよく憶えています。
“Beton, kosti a sny” の紹介ページに掲載した動画(こちらでご覧いただけます)でレンチーン本人が語っていますが、この物語はオーストリアで実際にあったナターシャ・カンプシュ誘拐・監禁事件に想を得ています。しかし、発端こそ少女監禁事件ですが、それが小説という表現形式の考察を含んだダーク・ファンタジィへとスライドしていき、しかも最後にはもう一捻りがある。こちらの予想を超えた展開に興奮しました。
レンチーンはこの作品について自身のHPで、「誘拐されたオーストリアの少女ナターシャ・カンプシュの物語は、メディアが引っ掻きまわし、グジャグジャにしてしまうよりも前からわたしの印象に残っていたと言わなければならない。その内なる真実はわたしを捉えてはなさなかったので、自分なりのやり方で話を語りなおしてみた。この短編は、夜、あなたが本棚を並べなおしている時に思い出してほしい」と書いています。
イラスト:池田愛
女優。1995年、神奈川県出身。
2011年、『ももいろそらを』(監督:小林啓一)で映画初出演にして初主演。この作品は第24回東京国際映画祭「日本映画・ある視点部門」で最優秀作品賞を受賞した他、2012年のサンダンス映画祭「ワールドシネマ・ドラマティック・コンペティション」で上映され、世界的に高い評価を得た。彼女も2014年の毎日映画コンクールの新人賞にノミネートされた。
以後、俳優活動のかたわら、趣味のイラストを自身のツイッターで発表している。