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跳びおりた者たち

     Skokani

                          パヴェル・レンチーン Pavel Renčín 

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空中から見たヌスレ橋 Nuselský most z ptačí perspektivy

Petr Jedelský [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], via Wikimedia Commons

                   6月16日―火曜日

1999年6月16日、23歳のロマン・Kがヌスレ橋から跳びおりて自殺、この場所において自ら強引なやり方で命を絶った264番目の人物として記録された。

                   6月17日-マルチン

 

のたのたとおぼつかない足どりでヌスレ橋を渡りながら、心のなかではこの取材をぼくに命じたホロウプカ編集長に対し、生きとし生けるものが思いつく最悪の罵声をあびせていた。というのも、ぼくが例によってボイスレコーダーの電池が切れてるのを交換し忘れてたものだから、例によって手垢のついた企画をあてがわれたというわけ。

  「感覚の鋭い人にだけ感じられる独特の雰囲気をもつ場所があるとよくいわれるが――白い紙の上をボールペンが軽やかに踊りはじめる――ヌスレ橋はどうか? なにかと評判の悪いこの巨大建造物を知る人であれば、謎に満ちているとか、禍々しいとか、ましてや神秘的だなどと思ったりはしないだろう。ぱっと見て印象にのこるのは、粉塵に黒ずみ、悪臭、コンクリート、そして下にひろがるごみごみしたヌスレ地区。それから…」

  「まさか遺書を書いてるんじゃないだろうね?」 いきかう車の騒音にかき消されないほどの大声が背後から聞こえたので、ぎょっとしてぼくはペンを落とした。ペンは地面にあたって跳ね、手すりのむこうに消えた。一瞬めまいがした。むっとしてふり返ると、そこにはぼくと同じくらいの身長で、二十歳そこそこの若者が。短く刈られた茶色い髪、Rapidと書かれた黄色い帽子のつばの影には好奇心でいっぱいの目。そいつは火のついてない煙草を手のなかでもみくちゃにしていた。

  「もしかして、跳びおりたいわけじゃないとか?」 ぼくがうろたえている様子をおもしろがって、顔の半分を皮肉っぽく歪めて笑いながらまた訊いてきた。

  「違うよ!」  つっけんどんに返事をする。だれかに肩越しにのぞきこまれるのは好きじゃないんだ。

  「そう、」 彼は少し残念がってる様子だった。「じゃ、ここでなにしてんのさ?」

 ぼくはそっぽをむいた。「仕事だよ。まだなにか用?」 まだ絡んできたら、つぎはいやみをいってやろうとすこし期待して待つ。返事はなかった。サッとふり返るとだれもいない。なんだこれ。橋の上にいるのは犬を連れた婆さんだけ。とっぴょうしもない思いつきに駆られ、思わず自殺防止用の金属柵のほうに目をやった。それはばかでかくて、がっしりとした作りだった。自分のアホさに思わず苦笑してしまい、橋の下を見る気にならなかった。

 ぼくは予備のペンは持たないようにしてる。腕時計を見ると午後1時半ごろ、あと一時間もすれば打ちあわせだ。昼間の勤務時間はもうおしまい。

                   6月18日-クリスティーナ

 

昨夜は思ったより早く帰宅できた。別れた彼女とはよりを戻してないので、考える時間は一晩中たっぷりあった。第一目標を設定:《N》(のちに命名)で起きた自殺について手に入る情報をすべて集めること。興味深いケース、有名人や話題になった事件も全部ひっくるめて。

 朝になるとすぐカレル大の図書館にむかい、ほぼ終日そこですごした。新聞の切り抜きを分類し、データ端末で情報収集。犯罪記録の記事、短信、白黒写真、無味乾燥なコメント、そしてメモと古い写真の山を調べた。時は遅々として進まず、ぼくはうんざりしてきた。いや、待て。なにかすごく重要なものを見た気がして、ビビッときた。ひろげてある紙面をもういちど注意深くチェック。そしてその前のも。一枚の写真に目がくぎづけになった。暗い色の髪にRapidと書かれた明るい野球帽をかぶった若者がこちらを見ている。『ルデー・プラーヴォ(赤き真実)』紙、1981年第15号の記事に添えられた写真で、見出しは「若き自殺者」。アホみたいな見出しにうんざりしつつも、ぼくは写真を注視し続けた。画質はよくないが、昨日の見知らぬ男そっくりなのは見てとれた。

 すっげぇ偶然、そうつぶやくと、それ以外の説明は考えても意味ないからと、妄想癖のある自分にいい聞かせた。他に特筆すべきことはなにも書かれてなかった。マルチン・Fが死んだのは午後1時半だったという点をのぞけば。情報収集はあまり成果が上がらなかったので、コピーできるものはコピーして帰ることにした。途中、ボイスレコーダー用の電池を買った。

 普段、ぼくは直接事件現場で書くほうがアイディアがすらすら出てきて、ずっといいものができる。今は亡き師匠ピトラの口癖――「家にいて最高のものがひねり出せるはずがない」だ。

 白いフォルマン(* 訳註1)を駐車し、《N》の周辺を調べてまわろうとした矢先、にわかに空がかき曇り、夏の嵐の様相を呈してきた。最初の重たい雨粒がほこりっぽい地面をビシャッと打つ前に地下鉄ヴィシェハラット駅の大理石の通路に逃げこめたので、濡れることなく様子をながめられた。やがてバケツをひっくり返したような土砂降りになった。ぼくはボイスレコーダーをオンにし、あたりの様子を口述した。

* 訳注1.シュコダ社のステーションワゴン

  「《N》をおそった雷雨はけたはずれのもので、あたりを闇でつつみ、耳が聞こえなくなるほどだ。土砂ぶりのなか、雨やどりしながらながめる音と色の饗宴はなんともいえぬ趣がある。雷光一閃、あたり一面まっ白になった瞬間の《N》は神々しいほどで、谷間にかかる揺るぎなき存在に思える。幾億もの雨粒がそれにあたって汚れを落としたあと、集まって流れとなって深い谷底へ落ちていく。まっすぐのびる橋の真下にある公園の歩道は、この高さからだと堤防が決壊して無人になった町を流れる銀色の川のよう。大気は雨とオゾンの匂いに満ちている。雷雨が弱まると、今度は建ちならぶアパート群のむこうから、言葉では言い表せないほど美しい虹が。だがそれも数分ほどで消えてしまった。エンジンに活を入れようとするかのような機関車のながく辛気くさい汽笛、パトカーのサイレン、ちいさい子どもたちのさけび声、車のクラクション、そしてトラム(市電)の鐘がふたたび聞こえてきた」

  「すごくいいじゃない。あんた、作家?」

 数歩はなれたところに、ゆたかな栗色の髪をした背の高い娘が。吸いこまれそうな茶色い目、雨で少し落ちた化粧。顔のつくりはきっちり左右対称というわけではなく、唇は薄すぎるのに、トータルではおどろくほど魅力的だった。

  「いえ。記者です、奥さん」 笑顔でこたえる。

  「奥さんだなんて。クリスティーナっていうの」

 ぼくは手をさし出した。「ヤクブです。前にどこかで会ったことない?」

 彼女はぼくと握手をしなかった。まるでこっちに下心があると決めてかかっているようにじっと見てる。「かもね。あんたがそう思うなら、ヤクプ。で、どこの話?」 ゆたかで艶やかな髪をひとふさ、右手の人さし指にまきつけながら、彼女はすこし首をかしげた。

 ぼくは自分の迂闊さにほぞを噛んだ。そんな子どもだましはやらないし、本当に会ったことあるんだ――でも、どこで? 次の瞬間、それを思い出してぞっとなった。

  「きみ、もしかしてクリスティーナ・ベネショヴァーって名前じゃない?」

 彼女はいぶかしげにうなずいた。

 ぼくは記憶の糸をたぐる。「生まれたのはベロウン、裁縫を学んで、子どもがひとり――男の子だっけ?」

 彼女の表情が変わり、首をかすかにたてにふった。

  「…で、5年前に亡くなってる」

 彼女は目をふせた。すこしうろたえながらバッグに手を入れ、小さな鏡をとりだす。メイクをなおしはじめた指がこきざみに震えていた。

 ぼくは自分がいったことの意味に気づいた。「ごめんなさい。ぼく…ひどい冗談を…」と謝りながら、ごまかし笑いをうかべた。

  「いいのよ、」 彼女はぼくの目をまっすぐに見つめていた。「明日来てよ。そのことについて話すから。あたし、もういかないと」 そういって悲しげに微笑み、いなくなった。とにかく消えてしまったんだ。ぼくはボイスレコーダーのスイッチが会話のあいだ中オンになったままだったのに気づいた。彼女の声は録音されていなかった。

夜、ソファに寝そべってナポレオンをちびちび飲みながら、状況を冷静に整理してみた。かの偉大な指揮官だってこの件についての公式見解は胸のうちにしまっておいたんじゃないか。とりあえず今のところはじたばたせず、念のため日が昇るまですべて先送りにしようと決めた。

                   6月19日―ガボ

19日は金曜日だった。早くに目がさめたぼくは、すぐにも家を出たくて矢も楯もたまらなかった。でもどこに? 頑張って自分の好奇心を抑えてたけど、12時の鐘を聞いたらもうだめだった。《N》に向かう途中、ハンバーガー・セットにポテトを二袋買った――今日こそ謎の手がかりをつかんでやる、たとえ橋の上で一日中すごす羽目になってもだ。

 ほこりと騒音に満ちた町の中心をなんとか通りぬけると、度胸をきめてコンクリート製の《恐怖の館》に突撃、いつものようにボイスレコーダーのスイッチをいれた。あたりを見まわし、その場の雰囲気をからだに染みこませる。ほこりで息がつまりそうな空気と、とばしてくる車の爆音ぐらいしかなかったけど。

  「自殺願望に駆られたからといって、苦労してガードレールや金網をのり越えようとするなんて理解に苦しむ。それなら5月5日通り(* 訳註2)を歩いて渡るほうがはるかに簡単だろうに、」 わざと不敬発言をボイスレコーダーに吹きこむ。だがなにも変わったことはおきなかったので、ぼくは仕事にとりかかった。

* 訳註2.ヌスレ橋とつながる幹線道路

  「ヌスレ橋は谷底から42.5メートルの高さに懸架されている。歩いてわたった場合、はじめのうちは軽いめまいに悩まされるだろうが、延々485メートルを歩ききるころにはもう慣れてしまっている。下にひろがるのは、見てくれのぱっとしない四角い体育館、でこぼこの線路、犬の糞だらけの公園、湿気でぼろぼろになった壁を隠そうと正面(ファサード)だけ真新しくしたアパート群。いっぽう人間はといえば、つまらない目的と欲望につき動かされて這いまわるアリだ。憂鬱、隔絶、孤独の影があなたを押し潰そうとしている」 足もとの馴染みのない街をもの憂げにながめていたら、気がつくともう口述をやめていた。

 小石が飛んできて足にあたった。なんだろうとあたりを見回す。5メートルもはなれてないところで、色褪せたまだら模様の青いTシャツを着た薄汚いロマ人の男の子がぼくを胡散くさげにためすがめつしていた。不愛想で、逃げもせずつっ立ったまま、次に投げる石の重さをポーンポンと手で測っていた。

  「なんだよ?」 インテリっぽい口のきき方ができず、ついそういってしまった。ロマ人の男の子は数歩近よると、もじもじしながら茶色い目でぼくを見つめた。「ちわっ、おいちゃん。モクねえかい?」

 まぼろしでも見てるのかと思った――幽霊に対してなら心がまえをしてたけど、これはまた…。あまりに狼狽したものだから、つい彼に煙草を一本勧めていた。ぼく自身は吸わないが、正しい記者としてウエストを二箱いつも持ち歩いてる。彼は二本つまんだ。犬をつれた猫背の老婦人が向かいの歩道からぼくをにらんでいた。

 「なんで石なんか投げたんだよ。これっておまじないかい?――物をたかる時はまずなにか当ててからみたいな」 うろたえたままなんで、口調が皮肉っぽくなってしまった。もちろんむこうはそんなことには気づいてない。

  「違うよ、おいちゃん。いつもじゃねえよ、ここでだけや。あんたがあれじゃねえか確かめたくってよ。っていうか、もしかしたらあれかもしれんし、っていうか…」 残念ながらうまく説明できるほどの語彙が彼にはなく、話は尻切れとんぼになった。このとき、もうぼくの頭のなかでは警戒警報が鳴り響いていた。

 知ってることすべてを彼から聞き出すまで、煙草をもう五本たかられた。ガボというその子は近くの地下道で寝起きしている。家よりもそっちのほうがいいんだと目をくりくりさせながら彼はいった。そして《ボロ服おばけ》と呼んでいる幽霊たちについて話してくれた。

  「いいかい、おいちゃん、あいつらのほとんどは性悪でさ。昼間に出るやつは性悪、で、夜のは…」 ブルっと身震い。「だから石を投げんのよ、わかっかな? それが突き抜けたらおいらもすぐに《ボロ服おばけ》ってわかんだろ。あんたがポツンといた時、てっきり新入りやなって思ったんや。太陽が照ってるときなら影でわかんだ。あいつらにはねえから」 彼は肩をすくめて鋼(にび)色の空を見つめた。

  「きみはぶっちゃけ、その……ボロ服おばけと知りあいなのか」 ぼくは自分を落ち着かせようとした。訊きたいことは山ほどある。向こうもそれを察したのか、口が重くなった。

  「まあ、おいら、その…」

  「ちゃーす、ガボ」と呼ぶ声がした。もはやおなじみRapidの帽子に暗い色のTシャツ姿がこちらに歩いてくる。そいつは親しげに手をふった。

  「持ってきてくれた?」 とガボは目の色を変えて訊き、手をさし出して目をギュっとつぶった。

  「首尾をご覧あれ、ぼくちゃん」 そういって若者は相手の手のひらにボンボン・ショコラの小箱をほうった。

  「あんがと、」 ロマ少年はそういってから、目をあけてお菓子を口に押しこんだ。ぼくはようやく我にかえった。 「マルチンじゃないか」

 「おっ、こりゃどうも。心配ご無用、仕事の邪魔はしないから、」と皮肉っぽい笑みを浮かべてこたえた。

 「いや、違うんだよ。違うんだ。きみは…マルチン・フィリーペク、だったよな」

 「まあ、そうだよな」 彼は腰に手をあてて胸をはった。

 こんなことって! 生ける屍者、跳びおり自殺した者の幽霊に出くわしたところを想像してみて欲しい。ぼくはなにを訊けばいいのかさっぱり思いつかず、言葉を一語一語しぼり出すようにいった。

  「ここで、なに、してんだよ? えいくそっ」と声をあげた。彼は煙になったり、青く光りながら消えたり、長々と叫び声をのこして空へ飛んでいったりしなかった。

 普通に話し始めた。

                   6月20日――カレル

土曜の前の晩はあまり眠れなかった。大きなカップにコーヒーをいれ、ピンク・フロイドの「対/TSUI」を聴きながら一心不乱、パソコンで文章を書いた。これは自分にとって一生に一度のルポ、もしかしたらそれ以上になるかもしれないという気がしていた。

 マルチンとは昨日たっぷり30分以上、もういかなきゃと腰を上げるまで話をした。どこに?という問いにはこたえなかった。質問の多くにまったくこたえてないというか、肝心なところはあやふやにしたままだった。

 仮説その1を立ててみる:自殺者の魂は死ぬ間際、魂用の罠に捕らえられる。橋の周辺で謎の生きものが牙を研ぎ、亡者たちに罠をしかけているという不気味なイメージはなかなかいいと思った。ぼくの推論は、これしかないという結構説得力のあるものに落ちついた。ここ数日、説明のつかない謎についての本をあまりにたくさん読んだせいで、リアリストであるぼくの魂も揺らぎ始めてるようだ。

 とはいってもだ。マルチンは自分が死んだ時間に《N》にあらわれる。彼が見えない鎖によって記憶も、おそらくは意識もない状態に引き戻されるまでの時間は毎回異なっている。あと例えば、どうやってガボにボンボン・ショコラを持ってきたのか、そもそもどこで手にいれたのかとたずねると、彼はにやりと笑って目をふせ、ぼくが持つ銀色のオーラといったまったく関係のない話をしてごまかした。やつはぼくをからかってるのだろうか? 知れば知るほど疑問が増え、知識のなさにうんざりしてくる。なのにマルチンときたら我関せずの態でしゃべってて、ほとんどしっぽをつかませない。

 やつは自分の自殺の原因はモニカという赤毛の子で、死んだことを知った彼女は薬をのんだらしいとしれっと打ち明けた。彼女が生きているかどうかは知らないとも。マルチンは自分の存在理由について頭をなやませたりはしてないようで、「なんか変」などと考えてるかどうかも怪しいもんだ。やつは常識の物差しでは測れない。とにかくまともじゃない。

  「あいつらには羽根があるからな、」 ぼくらの頭上遥か高く、どんよりとした大気のなかを飛ぶ鳩たちを彼は指さした。そのとき頭を大きくそらしたので帽子が地面に落ち、一瞬、涙がひと粒だけ顏をつたうのが見えた。その後すぐに彼はいってしまった。あのひと粒の涙には、これまでに見た数々の現象よりもぞっとさせられた。

土曜は朝から晴れそうだった。今日はクリスティーナとまた会うつもりだったから、5時少し前に《N》へむかった。認めたくないけど、マルチンと出くわしたくなかったんだ。コングレス・センター周辺を散歩する汗まみれの人ごみをかき分けてすすんだ。風がそよとも吹かないうだるような暑さの週末、プラハ市民の二人に一人が水辺ですごしている時、ぼくは《N》にきて癒しの空間と静けさをやっと見つけた。とはいえすぐに車の騒音、人込みやざわめきが恋しくなってたけど。強い日差しに焼かれている古い墓石の前に立っていると、時間の進み方は千倍も遅くなる。ブラウスが体にはりついてる中年の女性の横を通りすぎ、白地に青いストライプのTシャツを着たふとった男が橋の反対側でローリーク(ロールパン)をこまかくちぎっては谷底に投げているのを手すり越しに目にした。ベージュのスーツケースを持った体格のいい若者がぼくの横を駆けぬけていくと、オーデコロンのつんとした香りと汗の匂いがしばしのこった。むっとする熱い土曜の午後、ぼくはクリスティーナを待っていた。5時半、彼女が地下鉄駅のほうからあらわれた。

 彼女は昔からの知り合いみたいに声をかけてきて、ぼくらはすぐ話にはいった。古い新聞記事の切り抜きと彼女の話からぼくはパズルのピースを組み合わせていった。彼女は美容室の経営についてしゃべった。死んだあとでも嘘をつく意味がこの子にあるだろうか?

 新聞には破産したアル中の売春婦と書かれていた。それについてこっちはなにもいわなかった。ぼくだって紳士だし、それになにより…死んだ人のことは悪くいわないものだろ?

 彼女にはパートナーにめぐまれなくて、どういうわけかいつもろくでなしばかりあらわれた……社会福祉士に息子をつれていかれたのが致命的な一撃になり、もうたち直れなかった。

 こちらがおどろいたことに彼女はとてもリラックスしてて、話をしていて楽しかった。血のかよっている普通の女の子だった。

  「どんな感じって?」 彼女はこちらの質問をオウム返しにした。「そうねぇ、いってみればゴムベルトなしでバンジージャンプするみたいっていうか。跳んだらもう後戻りはできない。天使みたいに飛ぶの……ただし、下にだけど」と、ちょっぴり気味悪い笑みを浮かべた。自殺した他の連中についてもぼくはたずねた。跳びおりた者たち……と会ったりするのかい?

  「知りたがり屋ねぇ、あんただってあっという間に年をとって、あっという間に死んじゃうのに」とぼくを鼻であしらった。「ここに来た時、橋でカレルに会わなかった? なんていうか、変り者の牛乳配達なんだけど。あのさ、」 彼女は笑った。「こいつったら遺書を市電(トラム)の切符に書いたの、住所と名前だけ。墓石になにを書けばいいかわかってもらえるように。橋の下でだれかがそれを見つけてくれるだろうって考えたんだって。で、跳びおりたの、それをポケットに入れてね。うすらばかったらないでしょ」 陽気にげらげら笑う彼女を見てたら、自分がばかにされてる気がした。

 彼女はぼくの目を長いこと見つめた。「明日の真夜中においでよ。夏至を祝うんだ。ねえ、いいじゃん。ここで輪になって踊って、それから――ぞっとする夜になるよ。みんな来るんだから」 精薄者のまねをして顔を歪め、魔女みたいなしわがれ声を出した。「ぞっとする夜!」 二人とも笑ってたけど、ぼくの背中を冷や汗が流れているのはクリスティーナに気づかれていなかった。みんな来るんだ。

 長いこと躊躇した挙句、ぼくは勇気をふりしぼって彼女にさりげなく触れてみた。手は彼女の腕をすり抜けた。なんの感触もなかった。冷やっとするむずむず感をのぞけばほとんどなにも――それだってこっちの想像かもしれなかった。

  「なぜそんなことしたのよ?」

 ぼくは肩をすくめた。

 彼女は一歩あとずさり、突然真顔になった。「怖がらないで、今にわかるから」 そしていなくなった。彼女はどうしてそんなふうに思ったんだろう。ぼくは怖がっていた。

                   6月21日-夏至

車をターンさせ、ナ・パンクラーツィ通りからパンクラーツ広場に入ると、闇に光るジャガーの眼のような街灯がぼくのふがいなさを責めたてた。あたりは静かな夏の夜、がらんとした通りで煩悶懊悩。ぼくだって真夜中にヌスレ橋へ幽霊たちと会いにいくほどクレージーじゃない。一時間前には家ですわってテレビを観てたんだ。必死で堪えてたから、なにが映ってたのかさえおぼえてない。で、気がつくと、内心の声が絶え間なくぼそぼそと、行動にうつれとささやいていた。「向こうにはおまえが必要で、おまえは向こうを助けられるかもしれないんだ。一年で一番短い夜、おまえがあいつらを自由にするんだ、おとぎ話みたいにな」 ぼくは声にいい返した。「なんでぼくがやらなきゃいけないんだよ」 そしてわれながら説得力のある指摘をした。「彼らを解き放っていってしまったら、ルポが出てもだれもぼくを信じてくれないよ」 大声でそういってる自分に、発狂しているみたいだと思った。内心の声ときたらこちらが思いもよらぬ攻め方をしてくる。妥協案――「とにかく街の中を走ってみよう――ヌスレ橋にさえ近寄らなければどこでも」――をぼくは選び、家を出た。

 なのに、ぼくときたら今まさにそのあたりをうろついている。バックミラーに吊るした猫のガーフィールドのぬいぐるみがぶらぶら揺れながら、ガラスの瞳でぼくを凝視していた。「なにもいうんじゃないって!」 今度は妥協案ではなくガッツリいってやったけど、それはさからうように揺れつづける。次の角でコングレス通りへ方向を変えようと思ってたのに、道路は工事中を示すオレンジ色の点滅灯でふさがれていた。「だましたな!」 逆光のなかでは毛むくじゃらの逆さ吊り男(* 訳註3)に見えるガーフィールドをののしった。橋の方へゆっくり車をすすめる。どこにも人影はない。静寂。エンジンのうなりと車輪が道路をはむ音だけ。なんか、におうぞ。アルコール、煙草、そしてすえた汗の匂い。「よう、」 胸が悪くなりそうなぼろきれをまとった、でっかい図体の知らない男が助手席にすわっていた。一瞬、心臓が止まった。

* 訳註3.タロット占いに使うカードの図柄で、「報われない、終わりが見えない、自己犠牲行動が無駄に終わってしまい、何かを犠牲にしなければならないこと」を意味する。

 うしろから細い腕が二本のびてきて、目隠しをした。クリスティーナのかん高い笑い声が響いた。

  「やっぱ来てくれたんだ」

 なにも見えないのに、ブレーキをかけようという考えは頭にうかばず、アクセルを乱暴に踏んだのでフォルマンのエンジンが唸りをあげた。ここから逃げるんだ! 突然、何本もの手がぼくのからだを撫でまわした。だれのものともわからぬ指が耳や口に突っ込まれ、シャツをねじり、髪の毛をひっぱった。ぼくは頭で激しく振りはらい、目を大きく見開いた。クリスティーナの手のひらが突然消えた。車のなかにはだれもいなかった。スピードが100キロ以上出ていて、ライトのなかに思いがけず、背中にこぶのある女が雑種犬を連れて杖をつきつき横断している姿があらわれた。床につかんばかりにブレーキを思いっきり踏んでハンドルを切ると、車はコントロールを失ってガードレールに突っ込んでいった。車輪が悲鳴をあげ、ものすごい衝撃。フロントグラスが飛び散り、金属はねじれ、鋭い破裂音がした。ぼくはハンドルにはげしく頭をぶつけ、目の前がまっくらになった。

 数秒後、意識をとり戻したぼくは、舞台上でくりひろがられる恐ろしいシーンを客席からながめる観客の気分だった。満天の星――割れたフロントガラス越しに夜空が見えていた。ガードレールを突き破った車は転落防止柵に乗りあげていた。かすかに上下する前輪の下には深い闇。手のひらで顔をぬぐった。右の目に汗がはいってちくちくした。いや、血だ。からだを動かすのが怖かった。脈がどくどく打っている。車が揺れているのは、心臓の激しい鼓動のせいのような気がした。ゼーゼーという音が静寂を破った。ぼく自身の息遣い。

 だれかが笑っているのが聞こえた。ぼくの背後、橋の上でくぐもった声が。ひそひそ話なので、なにをいってるのかちっとも聞きとれない。不意にボンネットの上にクリスティーナとスーツ姿の男があらわれた。彼女はいたずらっぽく笑いながら、ぼくに投げキスをした。つづいて助手席にいた図体のでかい男。そして眼鏡をかけたはげ頭のじいさん。まだまだ続く。ぼくは彼らを数えるのをやめた。車のフロント部分が上下に揺れているのは目の錯覚か。目を閉じるんじゃない。吐き気と失神しそうになるのをこらえた。かすかに上下運動をくり返すヘッドライトが闇を切り裂く。星があまりにくっきり見えるので目がまわりそう! 跳びおりた者たちが車をシーソーにし始めたようだ。バックミラーに目をやる。車の後方には今やおなじみマルチン・フィリーペクの姿が。頼もしきマルチン……のはずが、人影は肩をすくめただけだった。闇の中に炎がぽっと燃えあがり、煙草の先端が赤く光った。

 と、かん高い声が闇夜に響いた。「助けてやっからな!」 ロマ少年のガボが幽霊たちに石を投げつけている。ありがたや。彼は巧みに立ち回っているようで、ボンネットから影がひとつふたつ闇に消えた。それに勢いづいたガボはうれしそうに雄叫びをあげた。

  「やつらに食らわせてやれ!」 ぼくは叫んだ。ガボは投げつづける。と、どこで手に入れたのか、彼の手に大きな石(たぶん舗装用の丸石)が。その瞬間、それがなにを意味するのか理解した。叫ぼうとしたけど、間に合わないのもわかった。ばか騒ぎしている跳びおりた者たちの渦の真ん中に重たい石がドスンと落ち、重力のおかげでかろうじて保たれていたフォルマンのバランスが完全に崩れた。車はギギギと耳ざわりな音を残して深い闇の底に落ちていった。

 落下しながら、ぼくはなんとか車から跳びだした。

 42.5メートル、人生の走馬灯が頭の中を駆けめぐるには3秒足らず。それじゃ時間が足りないか。

 

目をひらく。地面はあたり一面ガラスや金属のかけらだらけ、少しはなれたところに破裂したタイヤがころがっている。元がなんだったのかわからないほど捻じれた車の金属部品。ガソリンが漏れてる匂い。生きてる? そんなことあるわけないと心の一部がガーガーわめいているが、今は聞く耳持たず。生きてる! 頭のとれた猫のガーフィールドが左足のかたわらを転がっていく。生きてるぞ……どこか遠くで犬が吠えている――嘲けるように、勝ち誇るように。橋の下に立っているぼくは、夏だというのにガクガク震えがとまらない。夜なので自分に影があるかどうかはわからない。

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